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立教新座高校「時に海を見よ」に寄せて

 

もう6年も前のことになりますが、2011年3月24日、立教新座高校の校長、渡辺憲司氏が「時に海を見よ」と題したメッセージを同校のホームページに掲載しました。

3年生の卒業に当たってのものです。

 

https://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

 

このメッセージはインターネットで評判になり、Twitter等を通じて急速に広まりました。

渡辺氏がこの記事を元に書籍を出版するなど、いろいろなメディアで取り上げられているので目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

 

諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

  

「時に海を見よ」は、東日本大震災直後に書かれたもので、震災直後の悲惨な状況において大学に進学するとはどういうことなのか、何のために大学へいくのかについて渡辺氏の考えが述べられています。

 

この記事を読んで僕が感じたこと、僕が思う大学進学について書きます。

 

 

 

渡辺氏は、記事の中でこう述べています。

大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

 

その通り、大学だけが学ぶところではありません。

もちろん、勉強するために大学に進学するというのは正しいと思います。

しかしそれは、専門学校や養成所に通うことと違いません。学ぶことに場所は関係ありませんし、むしろ企業等の大学以外の場所でしか得られない学びというものもあると思います。

学ぶために大学へいくというのは、正しいことですがそれだけではないように思います。

 

 

また、渡辺氏はこうも述べています。

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

 

友人を得ることは大学での醍醐味の一つです。友人は刺激を与えてくれますし、人生を豊かにしてくれます。

これも間違ってはいませんが、大学だけが友人を得る場所ではありません。

高校の友人もいるでしょう。職場でも友人ができるでしょう。趣味の友人も作れるでしょう。

 

 

学ぶためでも、友人を得るためでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学へいくのでしょうか。

この問いに、渡辺氏は、「海を見る自由」「立ち止まる自由」を得るためであると結論づけています。

高校時代には許されていなかった、そして社会人になっても許されないであろう、”自分の時間を自由に管理する”ということが許されるのが大学なのだといいます。

 

 

 

僕が思う大学進学とは、挑戦の時間を得ることです。

大学では、高校では親に管理されていた時間や行動を自分で自由にできるわけです。

社会人には許されていない世間の目も、大学生という身分なら関係ありません。

バックパック一つで途上国へ飛び出すことも、様々なアルバイトを経験することも、何日も徹夜で写真を撮りにいくことも、大学生はやろうと思うだけでできるのです。

 

遊ぶことが大学生の本分だと言いたいのではありません。

何か新しいことに挑戦することが簡単にできるのが大学生なのだということです。

それはこれからの人生でやりたいことを見つけるためであったり、将来やりたいと思っていることへのアプローチであったり様々ですが、そういったことに躊躇なく挑戦できる場所、時間が大学なのだと思います。

 

 

「流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。」

渡辺氏のこの言葉を、僕たち大学生はもう一度考える必要があるのではないでしょうか。