イズミエントリー

俺の俺による俺のためのエゴイズム

自分を正しく評価することは人のためになる。

自らを正しく評価しないと、他人に不当に辛く当たるようになってしまう。かもしれない。

って話。

 

 

 

僕は、正しく自分を認めることってとても大切だと思ってます。

じゃないと本来出せる能力も出せなくなっちゃうしなにより辛い。

自分が10できるのか5できるのかを知らないと適切な仕事量がわからない。

 

 

大学生らしく例えてみると、自分のお酒のキャパを知らないと楽しく酔えないでしょってこと。

多すぎても少なすぎてもいけない。

 

 

仕事とかも同じで、過大評価するのもダメだけれど、過小評価するのもよくない。

 

 

 

 

これって自分のためにも必要なことであるわけですけど、最近人のためにもなるのでは、と思うことがあったので書きます。

 

 

 

 

例えばこういうこと。

 

10の能力がある人がいたとして、その人は自分に5しか能力がないと思っていたとします。

 

その人は10の能力があるのだから、10のことができるのは当たり前なのだが、自分では5しか能力がないと思っているから「5の能力しかない俺が10できるのだから、5の能力の他人も10できるはずだ」と思うようになってしまう。

そして5の能力の人に「10のことくらいできるだろう」と要求するようになる。

 

本人は過大な要求をしている自覚はないのでたちが悪い。

 

 

謙遜し、自己を低く評価することは、他人にも良くない影響を与えるかもしれないってことです。

 

僕は安易に人をカテゴライズするのは嫌いなのだけど、こと日本社会、日本人について言うと自己を低く見る、謙遜することを美徳とするきらいがあると思います。

 

もちろん他人に自分を大きく見せることが必ずしもいいわけじゃあないけれど、他人には良い塩梅にへりくだっておいて自分は自分を正当に評価しておくことが必要だと感じます。

 

 

自分を低く評価するあまり他人に過大な要求を(自分では過大だと気づかないうちに)してしまうことは、今の日本社会の過労や労働生産性の低下といった問題の一端を担っているのではないでしょうか。

 

 

さらに問題なのは、これが一過性のものではないということです。

自分を低く見積もる他人に過大な要求をする過大な要求をされた人も自分を低く見積もる他人に過大な要求をする・・・

と、連鎖的に続いてしまうことにも繋がりかねません。無限連鎖。スパイラル。悪循環。

 

 

 

自分のキャパを正しく把握しましょうってことです。何事も。

シラタサヤカという人間

 

シラタという人間がいます。

そりゃまあ日本人1億2000万人、シラタ姓の人間は少なからずいるだろうし、海外にShirataなる人間がいたとしてもおかしな話ではありません。

 

僕が語りたいのは、高校時代に出会った、一人のシラタサヤカについてです。

 

 

 

ブログにおいて、たった一人の人間のために記事を書く。

これはまごうことなき俺のエゴイズムです。

僕のブログのポリシーは「俺の俺による俺のためのエゴイズム」ですので全く気にしていません。

 

俺が俺のために書いているという前提で話を進めると、今回のように誰かのために記事を書くというのはむしろ利他的奉仕活動であるとすら言えます。。

エゴイズムの対極に位置する、超自己犠牲的奉仕人間が僕と言っても過言ではありません。

今日から僕のあだ名をマザーテレサにしてくださっても構いません。 過言です。

 

 

 

話が逸れました。 

僕が語りたいのは僕についてではなく、まあそれについても語りたいのは山々なんですが、こと今回の記事に関していうとシラタについてなのです。

 

 

 

僕がそのシラタと初めて会ったのは高校の部活の大会でした。

僕は放送局で活動していたのですが、その大会でのことです。

 

大会にいくつか部門がある中、僕は自校のテレビドラマ部門のチームに属し、作品を作っていました。

映像作品を会場で上映し、審査員に評価してもらうという方式です。

 

大会初日に上映順を抽選し、その順番になったら作品を焼いたDVDを持っていき、上映します。

 

 

普通の人ならこう考えるでしょう。

「作品は遅くとも大会の3日前には完成させて試写、大会会場には余裕を持って到着しよう」と。

 

しかし我々は圧倒的なまでの逆転の発想により、

「上映順、午後か。てことは午前まで編集して昼ごろ会場入りすれば余裕だな」と。

なんという時間の有効活用。スティーブ・ジョブズもびっくりの能率ぶりです。

 

実はこの考えは致命的な欠陥を孕んでいたのです。

そう、我々はデータの書き出しに予想以上に手間取り、間に合うか間に合わないかの瀬戸際に追いやられました。

 

 

なんとか上映時間に間に合った僕たちは会場に汗まみれで駆け込み、担当の運営生徒、別名シラタにDVDを手渡しました。

 

上映終了後、運営生徒、別名シラタは天使のような笑顔で我々の作品を褒め、お菓子を授けてくれたのです。

 

 

「もしかして天使かな?」

 

そう錯覚してもおかしくないほどの圧倒的優しさ、これがシラタを構成する要素の大部分です。

 

 

彼女の魅力はそれだけにとどまりません。

 

 

写真・文章のセンスの良さ、ウェブサイトデザインのセンス、よく考えるところ等あげればキリがありません。

 

これからも仲良くしたいと思う数少ない友人の一人であることは言うまでもなく。

 

 

 

 

 

ありがとうシラタ。ビバシラタ。

 

 

 

朝の攻略法

 

超絶朝に弱い。

あまりにも弱すぎる。
か弱い僕は目の前にそびえるあまりにも強大な"朝"の前に無力だ。
それほど朝起きられない。

 

僕は朝に弱いだけでなく繊細である。
バカラのクリスタルグラスのように繊細な僕は、朝無理やり起きて行動し始めると1日中調子が悪くなる。

 

 

そんな橋本環奈のようにか弱くうさぎのように繊細な僕が編み出した朝の攻略法をお伝えしたい。

 

 

 

1,ゴロゴロする


ゴロゴロする。
それはもう、恐ろしいほどにゴロゴロする。
布団に日頃の愛を伝えるのだ。
1夜どころか300夜、1000夜をともにしている人生のパートナーこと布団に、愛しさ、名残惜しさを伝えんばかりにゴロゴロちゅっちゅする。

んはぁっ!ふとん!愛しき布団!んふぅ♡ちゅぱちゅぱ♡
くほぉんぁぅうぅうううえおぉぉdjxgう0hjtじゅえてみ♡♡♡

 


…いやなんか中医学的にもゴロゴロするのはいいらしい。
いきなり起き上がるのはよくないからとりあえずゴロゴロしておく。

恐ろしいほどゴロゴロしてたらあんなに怖かった二度寝ももう怖くない!

 

 

 

2,シャワーを浴びる


すっきりしましょう。
目が覚める。


医学的なことはよくわからないんですが、体温が低いと眠くなって活動的になれない気がする。
湯船に浸かってもいいかもしれない。

なんならあれやろうヨガ。ヨガやろうヨガ野郎。
失礼しました。

 

 

3,朝ごはんを食べる


朝ごはんを食べよう。
野菜を食べたい。気持ち悪くならないように油っこいものは避けて、バランス良く。

 

個人差があるけれど、炭水化物は取りすぎない方がいい。
急激に血糖値を上げると途中で眠たくなったり調子が悪くなったりすることがある。
できれば気をつけたいのは、「白色」。
白米、白パン、etc...
これらも急激に血糖値が上がる。
全粒粉のパン、五穀米等がよろしいかと。

 

コーヒーを飲む人もいるけれど、朝カフェインの良し悪しは個人差があるのでまあそこはお好みで。

 

 

 

 


ここまで実践すればもうあなたは立派な朝マスター!
もう朝は怖くないしもはやあなたこそが朝の座に取って代わる者かもしれない。
秋どころか冬も近いけれど、あなたの朝に春が訪れる日も近い。
快適な朝ライフを謳歌してほしい。


おはようございます。現在朝9時25分。眠い。

やっぱりInstagramよりTwitterが好きだ。

 

 

承認欲求魔神ことイズミはSNSが大好き。いいねくると嬉しいじゃん。

 

今回は僕が大好きなSNSのお話。

 

 

 

僕はインスタもTwitterもどちらもやっているのですが、最近こんな傾向があるんじゃないかなーと思います。

 

 

Instagram

  • いいねがすごい来る。とりあえずいいねしてる。
  •  みんなストーリー使いがち。
  • 前までと違ってみんな一日複数投稿、一度に複数枚投稿しがち。

 

 

Twitter

  • いいねはインスタよりは来ない。
  • ネタ寄り
  • TL見ないで投稿する人が増えてる。

 

 

今回言及したいのは「いいね」に関することです。

 

確かにインスタはいいねがされやすい。

Twitterでは多くいいねされるときでもフォロワーの20分の1とかですが、インスタではフォロワーの3分の1くらいからいいねされたりします。

 

割と驚異的な差です。

 

Twitterで自分がいいねした投稿がフォロワーのタイムラインに表示されるようになったことも関係していると思いますが、インスタではみんなの投稿を「とりあえずいいねしておこう」みたいな風潮があると感じます。

 

 

自分がこれ良い!って思ったやつだけいいねしたくない?

 

したくないですか?

とりあえずいいねしておこう~みたいな義務感めんどくさい。

 

 

これ良い!って思ってくれたやつだけいいねして欲しくない?

 

して欲しくないですか?

 

義務感でいいねされてもあんまり嬉しくなかったり。

 

 

 

とりあえず僕は、自分がいいと思ったやつだけいいねしたいし、いいと思ってくれたやつだけいいねされたいってことです。

つまり、InstagramよりTwitterが好きです。

 

 

いいねしてもらえたら嬉しいんだけどね!!!

立教新座高校「時に海を見よ」に寄せて

 

もう6年も前のことになりますが、2011年3月24日、立教新座高校の校長、渡辺憲司氏が「時に海を見よ」と題したメッセージを同校のホームページに掲載しました。

3年生の卒業に当たってのものです。

 

https://niiza.rikkyo.ac.jp/news/2011/03/8549/

 

このメッセージはインターネットで評判になり、Twitter等を通じて急速に広まりました。

渡辺氏がこの記事を元に書籍を出版するなど、いろいろなメディアで取り上げられているので目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

 

諸君らのほとんどは、大学に進学する。大学で学ぶとは、又、大学の場にあって、諸君がその時を得るということはいかなることか。大学に行くことは、他の道を行くことといかなる相違があるのか。大学での青春とは、如何なることなのか。

  

「時に海を見よ」は、東日本大震災直後に書かれたもので、震災直後の悲惨な状況において大学に進学するとはどういうことなのか、何のために大学へいくのかについて渡辺氏の考えが述べられています。

 

この記事を読んで僕が感じたこと、僕が思う大学進学について書きます。

 

 

 

渡辺氏は、記事の中でこう述べています。

大学だけが学ぶところではない。日本では、大学進学率は極めて高い水準にあるかもしれない。しかし、地球全体の視野で考えるならば、大学に行くものはまだ少数である。大学は、学ぶために行くと広言することの背後には、学ぶことに特権意識を持つ者の驕りがあるといってもいい。

 

その通り、大学だけが学ぶところではありません。

もちろん、勉強するために大学に進学するというのは正しいと思います。

しかしそれは、専門学校や養成所に通うことと違いません。学ぶことに場所は関係ありませんし、むしろ企業等の大学以外の場所でしか得られない学びというものもあると思います。

学ぶために大学へいくというのは、正しいことですがそれだけではないように思います。

 

 

また、渡辺氏はこうも述べています。

多くの友人を得るために、大学に行くと云う者がいる。そうか。友人を得るためなら、このまま社会人になることのほうが近道かもしれない。どの社会にあろうとも、よき友人はできる。大学で得る友人が、すぐれたものであるなどといった保証はどこにもない。そんな思い上がりは捨てるべきだ。

 楽しむために大学に行くという者がいる。エンジョイするために大学に行くと高言する者がいる。これほど鼻持ちならない言葉もない。ふざけるな。今この現実の前に真摯であれ。

 

友人を得ることは大学での醍醐味の一つです。友人は刺激を与えてくれますし、人生を豊かにしてくれます。

これも間違ってはいませんが、大学だけが友人を得る場所ではありません。

高校の友人もいるでしょう。職場でも友人ができるでしょう。趣味の友人も作れるでしょう。

 

 

学ぶためでも、友人を得るためでも、楽しむためでもないとしたら、何のために大学へいくのでしょうか。

この問いに、渡辺氏は、「海を見る自由」「立ち止まる自由」を得るためであると結論づけています。

高校時代には許されていなかった、そして社会人になっても許されないであろう、”自分の時間を自由に管理する”ということが許されるのが大学なのだといいます。

 

 

 

僕が思う大学進学とは、挑戦の時間を得ることです。

大学では、高校では親に管理されていた時間や行動を自分で自由にできるわけです。

社会人には許されていない世間の目も、大学生という身分なら関係ありません。

バックパック一つで途上国へ飛び出すことも、様々なアルバイトを経験することも、何日も徹夜で写真を撮りにいくことも、大学生はやろうと思うだけでできるのです。

 

遊ぶことが大学生の本分だと言いたいのではありません。

何か新しいことに挑戦することが簡単にできるのが大学生なのだということです。

それはこれからの人生でやりたいことを見つけるためであったり、将来やりたいと思っていることへのアプローチであったり様々ですが、そういったことに躊躇なく挑戦できる場所、時間が大学なのだと思います。

 

 

「流れに任せて、時間の空費にうつつを抜かすな。」

渡辺氏のこの言葉を、僕たち大学生はもう一度考える必要があるのではないでしょうか。

高校で数学を勉強すると大学が楽しくなるかもしれない

今回はタイトル通り、やっぱり数学って大事だよねってお話です。

 

僕自身は数学が大の苦手、ほとんど勉強しませんでした。

端から自分は数学ができない、と決めつけて勉強しようともしていませんでした。

今だから言えるけどリアルに2点取ったことあるし。

冷静にヤバイ。

 

 

そして結局私立文系に進学して、数学からは解放!もう一生関わらねえよ!

 

って数学のない快適ライフを謳歌するはずだったのですが。

 

最近、想定外に数学を使う機会があります。

何も理系に目覚めたわけでも、数学オリンピックに出るわけでもありません。

自分の好きなことのためです。

 

僕は経営学部の所属で、

もともと、マーケティングというか、たくさんの人に届けることに興味があり、現在マーケティングに関するインターンをしています。

その中で、ユーザーや消費者の分析をすることがあります。

つまり、統計学です。数学です。

 

これが地獄かというと、そうでもなくて。

自分が分析したデータをいくつも複合的に見た時に、一次データからはわからない事実がわかったりすると嬉しい。

高校で紙に向かってよくわからない数式を解かされていたときは少しも面白くなかったけど、実際に社会のことを数字で知るのはすごく楽しい。

 

数学がやりたくてこんなことをしてしているわけではないけど、数学をやると好きなことがより深くできる。もっと楽しくなる。

高校で数学が2点だった僕でこうなんだから、もっと勉強していた人はきっともっと深く知られて楽しいんだろうなあ、と思うと羨ましくなります。

 

 

きっとこれってマーケティングに限った話ではないし、数学に限った話でもなくて、使うと思っていなかった勉強を思わぬところで使うことがあるかもしれない。

その勉強をしていたことで、思わぬチャンスを掴むことができるかもしれない。

 

高校の勉強は、大学入学後や社会人になった時に好きなことをやるためだったり、好きなことを見つけやすくするためにとても価値があるんだなあと思ったわけです。

高校英語めちゃめちゃ役立ってるしね。

 

まあつまり、高校で数学を勉強しておくと大学が楽しくなるかもしれないってことです。